昭和42年9月14日 朝の御理解



信心をさして頂くものは、いつも、鏡の前に立っておる自分というような気持ちで、信心をさしてもらわなければいけないと思う。信心をさして頂くものは、何時も、鏡の前に立っておる私を、ところが、鏡の前に立っておる私ではなくて、人の前に立っておる、自分である、様なことはないだろうか。なるほど、それは、神様は、えー、見通しであり、聞き通しでありますから、あー、前からであろうが、後ろからであろうが、あー、おんなじ様なものですけれども、神様には、いわば、姿もなからなければ、声もない。ですから、自然、んー、神様のほうには、後姿になりがちである。人は、場合によっては、笑ったり、そしったり、致しますから、人の前では、正面を、いや、いうなら、正面だけを人に見せようとする。私は、信心させて頂くものは、人には、信心させて頂くものの心意気を見せなければいけないと思う。ね。いうなら、後姿も、見せなければならないと思う。大事にしなければならないと思う。それに、神様の御用に、正面を見せて、神様のほうへ、えー、後姿を見せて、正面のほうを、人に見せようとする。神様が、何にも仰らん。聞いてござるやら、見てござるやら一切分からない。だから、そこんところを、ちゃんと、おろそかにしてしまう。ね。まあ、その、一番、端的なものは、先生の前では立派に致しておる。いわば、ここに、お引き寄せ頂いた時には、あの人が、あんなに信心しているのに、あの人が、おかげを受けられん筈はないがと思うようにある。ところが、家に帰ったら、反対のことになる。まるきり、二重人格である。それでは、おかげは受けられない。ね。
家内の部屋に、大きな洋風の鏡台が置いてございます。鏡台の前に、大きな人形がおいてある。私、いつもあの、おー、前に行くと、人のほうへ向けておいてある。私は、必ずそれを反対に向ける。鏡のほうへ、私は、鏡のほうに向かって、人形をこう置くのである。なぜって、私は、その人形の正面も素晴らしく出けてるけれども、後姿が素晴らしい。だから、その、後姿を私、いつも、おー、見るのです。正面は、鏡に映っているから、正面も、しゃっち、こう見える訳です。後姿が、その、素晴らしい。その人形のようにです。だから、私共が、正面を鏡のほうへ向かって立つ自分。いつも、正面に向かって立つ私たち。後姿は、人に見せたら良い。いや、後姿は、人から見られても、後姿でも素晴らしいなあという時にです。人に感動を与える。信心しござるきん、なかなか、あの、やっぱり違うというところなんでございます。ところがその、私達がですね。神様は、見通し、聞き通しだから、自分の後姿を、まあ、見てもらっておるつもりだけれども、どっこい、神様には、そら可笑しいとも仰らなければ、何とも仰らないものだから、ついつい、後ろなら後ろ姿を。いわゆる、陰日向のない心を、その持つなよと仰るけれども、いわゆる、陰と日向の心を持ってしまう。人は、それを神様のようなわけにはいかん。だから、私共は、神様のほうへ、正面を、いわゆる、教えに向かって立つ自分、鏡に向かって立つ自分。どこが汚れているか直ぐ分かる。ね。そして、腹の中はです、または後姿はです。人に見てもらう。そこに、ま、信心の、奥ゆかしさといったようなものが、そこにあるように見える。それを、どうも、私共は、反対にしておるようにある。後姿のほうを神様へみせておる。正面のほうを人に見せようとする。表面を見せようとする。これでは、おかげが受けられません。
昨日、十三日会。皆様には、熱心に、いわゆる、信心の共励がございます中に、堤さんが、あー、ご自信の信心を、最近の信心を発表しておられた中に、その気になると言う言葉を何回も使ってある。私も、遣っておったし、みんなも言うておることだけれども、昨日ほどそれを、また、新たなものとしてです、本当に私、頂く気でそれを聞いたことはなかった。その気になるということ。今まで、十何年間も、朝参りが出来なかった人が、いや、お日参りが出来なかった人が、その気になったら、出来ておるじゃないか。はー、もー、私達は、よっぽど、おかげ頂ききらんから、御造営費もおかげ頂ききらん。という人は、何時までたっても、おかげ頂ききらん。けれどもです、その気になって、神様にお願いさせて頂いたら、出来んはずの私が、嘘のように出来るようになった。その気になったからなんです。ね。神様が喜んで下さる。と言うても、人がたすかって行くということなんです。為には、自分自身が助からなければならない。ね。自分自身が、助からずして、人を助けることは出来ない。先ず、自分自身が助かるために、いよいよその気になる。ね。ためには、いつも、教えというものを鏡に立てておかなければいけん。頂く教えというものを、正面に立てとかなければならん。教えに向かって、立っておるから、教えを、本気で行じておるから、その、行じておる姿が、後姿であるならば、その行じておる姿を、みんなが、はー、なるほど、信心しなさるけん、やはりなるほど、おかげも頂きなさる、心持も違いなさる、しなさる事言いなさる事も違うてくるという事になるのです。私は、例えば、お供えだって、お参りだって、その気にならなければ出来るこっじゃない。もう、その気になっとるように、もう、神様、私は一心でございますと、こう、如何にその気になっとるのであるけれども、どうも、おかげがはかばかしくない。よくよく考えたところが、その気には、なっていないのである。ね。その気になってない証拠に、迷うておるじゃないか。他の事でも考えておる状態である。ね。人がどうか言や、もう、迷いよるじゃないか。その気になってない証拠です。その気になっておれば、その気になっておれば、一心を貫くことも出来る。その気になっておれば、出来ないと思っておった事が出来る。ね。改まれ、改まれとこういうけれども、その気にならなければ改まれない。改まらやんとおもうとる。改まらやんとおもうとる、という間は、改まられない。その気になれば改まりが出来る。ね。結局、信心させて頂いてです。私共は、その気になることを、(いまじみめたまわい?)いわゆる、形のお繰り合わせよりも、心のお繰り合わせを願えと仰るのは、その事。心の上に、その気にならせて頂くという事。朝参りでも、その気にならせて頂くという事になりゃ、そこに、しろしさも、また悲しい。なんの言う事はない、また有難い。けども、その気になっていないものがです。さあ、お参りしようと、人に誘われてもです。ま、誘われよるから、参ってくるけれども、しろしい。有難さがない。それは、貴方が、その気になってない証拠なのです。ね。眠いけれども、やはり、眠いけれども、有難いという事に、その気になればなるんじゃないだろうか。本当に、その気にならなければ信心はできない。その気にならなければ、改まることも出来ない。ね。ために、私共は、いつも、鏡を正面に立っておるという気持ちが必要である。いつも頂いておる、その教えというものの、前に向かって立っておるんだ。教えそのものが、いわば神様なのだ。ね。神様の前に正面を向けとかにゃいけん。教えの前に正面を向けとかにゃいけん。ね。人が何と言おうが、なん、どうしようがです。ね。いわゆる、正面を向かって立っているから、その気で教えに取り組むことが出来る。それは、ほんと、目には見えないけれどもです。その思いやら、言う事、する事がです。信心になって現れてくる。その、後姿を例えば、家内がです、子供がです、周囲の人がです。なるほど、家のお父さんは言うだけじゃない。本当に、やっぱ、信心しなさるきん違うという事になる。ね。いかにも、正面のほうだけ、いかにも私は、こげな、あーその、信心しよるけんでと言うて、その、あー、信心しよるとば、看板のようにして、ね。もう、私は、信心しよるけんで、私はもう、正直だ、私は真面目だと。というような、信心しとる事を看板のようにしておる、そして、その反対の方は、後ろのほうは、あ、そう言う事じゃない。信心しとって、あれが、あんなことをすると、人から言われるような事になってくる。それでは、いわゆる、おかげも受けられない。どうでも一つ私は、その鏡の前に立っておる自分であるという自覚にたって、いわば、たっておる自覚にたって、もう、立っておらなければいけない。ね。鏡の前に立っとかなければ、自分の様子も分からん。ね。顔に鍋墨がついとっても分からん。そこのところを、四神様は、手元のところを大事にすると、こういわれるのは、現在の教団で、もう、口を開ければそれを言うです、最近は。手元のところは、どうなっておるのかと。手元のところは、狂ってはいないのかと。ね。手元のところというのはです。ね。神様のほうを向いておかなければ分からんのです。ね。私は、そこんところを、足元を大事にとこう言う。手元でも、足元でも同じことじゃ。自分の足元が乱れておってです。おかげ頂ける筈がない。ね。自分の手元のところはです、人にはわからん。自分の足元は、自分で無きゃ分からん。ね。自分の心のなかと言う事なんです。ね。心の中に思うておることを、それを、行じておることはどうなのか。人にばっかり言うたっちゃ、お前はどうかと、こう言う事である。手元のところが出来るためにはです。手元のことが、本当に、・・?さっていくためにも、私は、いつも、正面きっての私である。鏡を前にしての私であるという事に、ならなければならぬ。ね。そこに、手元のところは、伴うてくる。反省が強うなってくる。限りなく改まらせてもらわなければ、研かせてもらわなければ、鏡の前には立てぬ。ね。そういう、私は、神様の前に、正面きっておる、その姿が、私は、信心のあるものの姿だと、こう思う。だから、それは、後ろから見ようが、どこから見ようがです、なるほどという、これは人にも合点してもらうことはいらんけれども、合点させずにはおかんのである。ね。それにはやはり、その気になることなのです。ね。その気になって、私は教えを頂く。その気になって教えを行ずる。その気になっておかげをいただきますと、出けんと思っておった事が、そのきになりゃ出来るということ。十何年間、例えば家内が出来るといいけれども、いいや、したいと思うけれども、なかなか、私には出来ません。その気になってないから出来んのである。ね。その事を、私申しますと、おー、吉井の森光つぁんですな、話をしたんですけれども、十何年間、日参りなんて、自分は出きんもんと、もう決めてしもうとる。もう、お供えなんか、自分なもう、できんこつ、もう、神様は出きんこつを知っちょるきと言うて、もう決めてしもうとる。ね。信心には、そこにい、止むにやまれんというのが必要なんです。止むに止まれん思いで、その気にならせて貰うところに、お参りが出来なかった人が出来るようになり、お供えが出来なかった人が、お供えでも出来るようになるのです。ね。それが、力のお徳にならんはずがない。ために、どうでも、私共は、鏡の前に立つ私達。ね。これは自然、自分
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